さばみのIgA腎症との35年ノート

IgA腎症とともに生きて35年。いよいよ扁摘ステロイドパルス治療がはじまりました。

小指の筋が断裂したのもステロイド?

結局、手の小指が曲がったまま戻らなかったのは、筋が断裂した模様。

痛みもなく、腫れもなく、色も変わらず、ただ曲がっただけだったのは、もともとの筋が切れる寸前ほど細く弱くなっていたから。

ステロイドの影響だね。」と、整形外科医師談。

その先生いわく「ステロイドは骨を弱くするだけでなく、筋も細く弱くするし、皮膚も薄くするし。ありとあらゆるところがもろくなる。」そうです。

手荒れがひどいのも、指先がたくさん切れてしまうのも、手のひらにクモの巣がはったように粉っぽい線が出ているのも、み~んなステロイドの影響でしょうか?

ステロイドを止めているはずの来冬はこんな悲惨な手にならずにすむんでしょうか?

ステロイドを止めるのがどんどん楽しみになってきます。本当にステロイドをやめて元の体に戻るのか、見ものですな。

 

曲がった小指ですが、ギプスでまっすぐに固定して2か月間の保存療法。まっすぐにはならないけどある程度は伸びた小指に戻るそうです。

手の小指ですから、ギプスで固定されてるのは果てしなく不便。すぐに水にぬれて冷たくなるし。だから、脱落者多数だそうです。ギプスを外さずに2か月間耐えられるか、根競べです。

小指が曲がったまま戻りません

寒い冬。下着2枚・厚スパッツ1枚・もこもこズボン1枚・キルト巻きスカート1枚に厚地靴下2枚。という下半身重装備の私。

年末のお出かけ中、ズボンをあげたところ、左手小指に違和感が・・。合計5枚を一気に上げようとしたから突き指でもしちゃったかしら?と思ったのですが。

左手小指の第1関節が90度に曲がってしまいました。痛みは皆無。

どんなに力を入れて手のひら全体を反らせても、小指だけは内側に90度曲がったまま戻りません。

曲がった小指をエイっと伸ばせば一瞬まっすぐになりますが、すぐにフニャって曲がってしまいます。伸ばしても痛みは皆無。

生活にはそれほど不便はありません。パソコンのキーボードのAキーが打ちにくいことが最もつらい。

かれこれ1週間、小指が一向に戻る気配がないため、とりあえず、下の子がテーピングしてもらった整骨院でついでに見てもらいました。

即、整形外科病院に紹介状を書かれました。「もしかして腱が切れているかも。手術の可能性もなくはないから。」とのことです。ヒエ~!!

週明け、整形外科病院を受診します。

「手術は体へのストレスが強すぎるためステロイドを飲んでいる人がするのは危険です。手術することがあったら大学病院に知らせてくださいね。ま、ないと思いますけどね。」と、入院時主治医に言われてきています。ので、もし、手術なんてことになったら、まぁ大変です。

とにかく、どんな診断が下るのか、ステロイド服用中の私にはどのような治療が選択されるのか、楽しみです。

妊娠と出産のこと おまけ

もうひとつ。

私見です。

扁摘ステロイドパルス治療をもっともっと若いうちにやれたらよかったなと思っています。それこそ10代とか20代の頃に。

私が10代20代の頃は、「扁桃腺と腎臓病に関係があると分かってきた。」とか「扁桃腺を取る治療が出てきた。」程度の時代でした。当時、先生から情報として聞いていましたが、治療不要(予後は悪くないと言われていたから余計に)と言われていたこともあって、全くもって聞き流していました。勧められもしなかったし。

IgA腎症の友人は10年前くらいに扁摘ステロイドパルス治療を受けました。その時の医師からは「まだ治療実績数が少なくて、効くか効かないか、どうなるか分からないけど。」と説明されたそうです。

でも、今や、IgA腎症には扁摘ステロイドパルス治療が標準治療とも言われています。効果が確定できるまでの治療実績数が足りないと言われてもいますが。

それでも、予後を考えれば、早めの治療が奏功すると私は思います。

だから、可能なら、体の状況やいろいろな周辺事情が許すなら、出来るだけ早いうちに治療ができたらいいなと思います。

妊娠出産も治療してからのがより安全かもと思います。

 

医療に関する研究が人の命だけでなく生活に大きく影響するということを身をもって経験できるのは感慨深くもあります。

 

 

 

妊娠と出産のこと④

入院はしなかったものの2人目の妊娠でも妊娠中毒症になってしまった私。塩分を取りすぎないように食事に気を付けて、体重が増えすぎないように散歩して・・でも尿蛋白は出続けてしまっていたのです。出産間近には、顔も体もだいぶむくんでいたので、そんな母体のお腹の中にいる赤ちゃんもさぞ苦しかったろうなと思います。

自然分娩で生まれた赤ちゃんは2200gと予想より小さな赤ちゃんでした。1人目より100gだけ小さいのですが、赤ちゃんの100gというのは違いが如実です、2人目はずっとずっとか細い印象の赤ちゃんだったように記憶しています。小さく産まれたため「赤ちゃんと一緒には退院できないでしょう。」と言われ、出産後の入院中に搾乳の仕方と病院への届け方などを教えてもらっていました。

私の体は順調に回復しました。血圧も体重もむくみも、約1週間で心配ない程度に戻りましたが、尿蛋白だけは(+)のままです。1人目を出産してしばらく尿蛋白(-)の時期があったので、少し期待していたのですが甘かった。結局、2人目を出産してから以降今日まで尿蛋白(-)は見たことありません。

私と赤ちゃんとが一緒に退院するには赤ちゃんの体重が2300gを超えなければいけません。もうちょっとで2300gに到達しそうでも、生まれてから1度も超えたことはありませんでした。

私が退院するその日、朝の母乳をあげていると、赤ちゃんがものすごい勢いで飲み続けています。それを見ていた看護師さんが「もしかして2300g超えるかも。ゲップとかおしっことかうんちで母乳が出ない内に、飲み終わったらすぐに体重を測ろう。」と提案してくれました。母乳をガッツリ飲み終わってお腹がぷっくりふくれた赤ちゃんをゲップもさせない内に体重計にのせると、ななななんと、初めて2300gをちょっとだけ超えていたのです。これが体重公式記録になるので一緒に退院できる!驚きの奇跡でした。その後ゲップをしてもりもりのうんちが出ましたので、うんち後に体重を測っていたら一緒に退院は出来なかったでしょう。

めでたく一緒に退院してからは、自宅で仕事しながらの2人の子育てがはじまります。職場の大変革期だったため育児休暇をとらずに産後休暇だけで職場復帰したのです。IgA腎症なのによくやるな・・と、今は自分で自分に失笑しますが、当時はいろいろな事情が重なり、私自身が早く仕事に戻りたかったのです。なのに、仕事に復帰し程なくして、職場の大変革がとん挫し、あっという間に通常業務に戻るという顛末があったのはここだけの話。

その後も、仕事をバリバリしながら、夜まで働くこと多数、土日も働くこと多数、出張多数、人前に出ること多数、をしながら2人の子育てをしていました。多分無理してました。当時は無理してるなんてちっとも思っていなかったし充実してた時間でした。

 

そういえば、退院時だったかな、退院1か月後の腎臓内科健診だったかな。先生から「出産はもうしない方がいい。腎臓を考えると3人目は難しい。」と言われました。もともと、2人出産できただけでもラッキーと思っていたので「3人目は全く考えてませんよ。」と答えたものの、自分の腎臓がそういう状態にあることには少しショックを受けました。

今思えば、この時点で、私には自覚症状はないしIgA腎症に対する意識もなかったけれど、先生は腎機能の低下の具合とか今後の病気の進行速度について分かっていたんだろうと思います。

 

それから私のIgA腎症は悪化の一途をたどります。もうこれは仕方ないことだと思います。だって尿蛋白が検出された10歳から30年以上経過しているのですから、腎臓もお疲れでしょう。以前の研究では、り患20年で透析率60%でしたもの。

そして、妊娠中毒症(しかも2回)になったIgA腎症患者は高血圧を呈しやすいという研究仮説の通り、あっという間に血圧が高くなり腎機能も低下し、コバシル内服治療が始まります。

とうとう服薬治療が始まってしまったかと思う反面、先生方が日夜研究している仮説を身をもって証明できて、ある種嬉しさも感じました。IgA腎症+妊娠中毒症で、30年以上同じ大学病院に通いカルテが残っていて、今後も通い続けるという絶好の研究材料です私。この感覚を持ち続けていることで自分の病気を俯瞰して冷静に見ようともしています。

出産してもしなくても、IgA腎症であれば腎臓が疲れる・腎機能が低下するのは自明の理なのだと思います。だから、私は、自分の中でIgA腎症と共存しようと思っています。あきらめとも仕方ないとも違う「自分の中で共存しようとする対象物」というのがIgA腎症を考えた時に最も近い表現かもしれません。

だから、どっちにしろIgA腎症は自分の中にいるので、出産してもしなくても、現在の気持ちに大きな変化はなかったと思います。が、出産して2人の子どもたちに出会えたことは何ものにもかえがたい宝物ですので、出産したから見つけられる風景はあるように思います。

2人目を出産し5年後くらいから「扁摘ステロイドパルス治療をした方がいい」と先生に言われ続けてきました。私は「やだよー」と言い続け、腎機能がすごい低下するけど次の受診には持ち直す を繰返し、結局、2回目腎生検と扁摘ステロイドパルス治療をしたのは2人目が11歳の時でした。

でも、とにかく元気です。治療しているけど何でもチャレンジできます。減塩たんぱく制限食しているけど普通に外食してるしお酒も飲んでます。仕事も悩みながらガンガンやっています。疲れたら遠慮なく休んでます。

子どもたちも青春の真っただ中を生きています。

 

妊娠出産を2回経験し扁摘ステロイドパルス治療まで終えた今、一番大切だったと思えるのは「医師への信頼」です。私は大学病院に30年以上通院入院していますので、もちろん主治医は何人も変わりました。そのたびに、意識的に、いろいろいろいろなことを質問します。それを繰返して医師と信頼関係を作っていくように心がけていました。

 

「私はどのくらいで透析になる?」

「前の先生は、予後はそんなに悪くないって言ってたけど?」

「何年生きられる?」

この手の質問はだいたい研究の話になります。ものすごい興味深いんですよ研究話。ただ、余命の話になった時には「死ぬのは分からん。が、IgA腎症は心臓病罹患率が高くなるから他の人より突然死リスクは高い。」とサラッと言われて恐怖しました。

ステロイド治療はしたくない。なぜならムーンフェースになりたくないから。」

「フランス料理のフルコースが食べられるから産科は〇〇産科医院にしたいけどいい?」

「今日の尿に塩は何g出てる?」

「昼の薬は仕事上飲み忘れることが多い。夜寝る前にまとめて飲んでもいい?」

治療に関することは、呆れられながらも、よい悪いをハッキリ答えてもらって気持ちよい。

「今、工事している病棟は何病棟?」

扁桃腺を切るのは先生じゃないの?」

「先生はなんで医者になったの?」

ほぼ雑談です。先生を知って信頼するためには、限られた診察時間の中でいかに雑談するかがけっこう大事だと思います。

 

パッと思いついた私からの質問だけを書きましたが、こりゃ、ただのわがままおばさんですな。それでも、先生はちゃんと答えてくれます。

聞きにくいことでも、先生が答えにくいかもということでも、勇気をもって質問します。だって先生はプロですから。答えてくれます。患者からの質問に答えない先生は主治医を交代してもらった方がいいと思うくらいです。

医師を信頼できたことが、妊娠中毒症になりながらも妊娠出産できたし、IgA腎症が悪化しても後ろ向きにならず治療を続けられている大きな要因のひとつです。

 

腎機能は低下しました。IgA腎症も重くなりました。CKD分類も赤(重症)になりました。でも、出産できたことは何ものにもかえがたい喜びです。治療だって、やってやろうじゃんって気持ちになれます。

妊娠と出産のこと③

2人目の妊娠は、「重いか軽いかは分からないが、ほぼ妊娠中毒症になると思う。」と腎臓内科の先生に言われての出発でした。「今回出産する産科は腎臓内科と同じ大学病院にすること」というのも決められてしまいました。(1人目の出産時と違い、周産期医療センターが新しくなったので産科病棟もきれいになったことと、大学病院全体で入院時の食事に力を入れるようになったので食事が格段においしくなったことが幸いでした。)

1人目の出産から4年がたち尿蛋白も常に(+)以上になっていましたし、年齢を重ね、以前より疲労感を感じるようにもなっていました。が、血圧がそれほど高くはなかったので薬での治療はまだ始まっていませんでした。

腎臓内科の先生には「2人目の出産をすると腎機能は低下するし治療速度は早くなるよ。ま、産まなくても低下するから、結局同じだけどね。」と言われました。この時の診察室で先生と私で半笑いしているけどピリッとしたグレーじみた空気感、まるで昨日のように色鮮やかに思い出します。

産まない選択肢は全くなかったのですが、「腎機能低下は免れないのね。しようがないわね。」という覚悟は1人目よりずっと重かったのです。

妊娠中は1人目同様ずっと働いていました。しかも妊娠出産時期が職場の大変革期と重なってしまったので、それはそれは勤務時間も長く大変革に伴う業務量の増大も著しいものでした。

それでも仕事をしながら、妊娠中毒症になると腎機能がさらに低下するので、とにかく、体重が増えないように、血圧が上がらないように、塩分制限と運動を心がけていました。昼食は塩分制限弁当を職場に宅配してもらっていました。おやつも食べないようにしていました。昼休みは食後歩いて運動していました。

産科健診・腎臓内科健診ともに母体はだいたい順調でした。途中30週手前くらいに少し糖が出たことはありましたが、尿蛋白は(プラスマイナス)、血圧も120ちょいくらいで推移していました。

ただ、お腹の中の赤ちゃんは「けっこう小さい」。

ある日の朝、出勤しようと朝起きた瞬間、ふらつき座り込んでしまいフラフラで立ち続けられないことがありました。原因は栄養不足でした。妊娠中毒症を心配するあまり妊婦として必要な栄養までカットしてしまったようでした。ここから、もう少し食べるように、味薄はそのままですが食べる量全体を増やしました。

お腹の赤ちゃんが小さかったのも栄養不足も一因だったんだろうと思います。が、一人目が小さくてもとても元気だったので、当時は、お腹の赤ちゃんが小さいことはほとんど気にしていませんでした。

 

気を付けてきました。妊娠中毒症になりたくなくて、ずっと気を付けてきました。

でも、37週で尿蛋白(2+)血圧130を超え、38週で(3+)血圧140。妊娠中毒症になってしまいました。この時の無力感というか悲壮感というか、今まで自分が頑張って努力してきたことが全否定されたように本当につらかった。この時は、IgA腎症を呪いたくなる気分でした。いつも産科に行ってから腎臓内科に行っていたのですが、腎臓内科の待合イスで涙が止まらなくて、泣き顔で診察室に入ったのを覚えています。

妊娠と出産のこと②

分娩室に入ってから2時間ちょいで出産しました。

主治医ではない腎臓内科の医師もいましたし、多分研修医的な医師もいて、5~6人の医師に囲まれての出産でした。

その医師たちが、私が痛い思いをしているというのに、ゴニョゴニョと話をしている時がありました。私の血圧が上がりすぎてしまい、すぐさま舌下に降圧剤が入れられたのです。出産後に、その時は血圧が200を超えていたと聞きました。あとは普通の分娩でした。

生まれたのは2300gくらいの小さな赤ちゃん。。赤ちゃんが小さいというのはお腹の中にいたころから言われていましたし、尿蛋白が出続けていながらの出産でしたから赤ちゃんに届く栄養が少ないということはある程度は覚悟していました。同時期に生まれた新生児室のベビーベッドで寝ているたくさんの赤ちゃんの中でも小さかったです。

生まれた時こそ小さかったですが、その後はとても元気に育ってくれました。

妊娠中毒症になり「帝王切開して赤ちゃんをすぐに外に出さないと。」と言われるほど大変だった時でも、私のお腹の中でしっかり動き回りけり続けていてくれましたので、頑丈な子なんだろうなとは思います。それは、私がIgA腎症だとかそういうこととは全く関係なく、ひとつの生命の力だと思いました。もう、私にはどうしようもないこと。IgA腎症の私のお腹の中にいた子がたまたま頑丈な子だったという事実があるだけだと感じています。

妊娠が分かった時には「生みたくない。怖い。」と言い、友人からあきれられしかられたりするほど不安でした。出産自体に不安があるのに、IgA腎症があるため普通の出産よりリスクが高いと聞き、ますます不安は高まっていました。その不安は、仕事することで吹き飛ばしていました。仕事をすることでたくさんの人と出会い会話し感情を動かし学び、そんな日常の一コマ一コマから不安を昇華させていきました。

IgA腎症は他の人からはとても分かりにくい病気です。自分も「病気だっけ?」と思っちゃう時もあるくらい。だからこそ、外に出しにくいIgA腎症ゆえのちょっとした不安(本当に生んで大丈夫かな。妊娠したから悪化しちゃうんじゃないかな。など)があります。「口に出すと大げさだなって思われそう。」とか「病気を言い訳にしてるんじゃないの。」などと思われてしまうんではないかとブルーになったりします。

IgA腎症のことを言える人がいたら言いましょう。家族でも主治医でもOK。SNSでもOK。口に出して外に出した方が体のためにいいんです。IgA腎症だけに限りませんが、ストレスをためることが最も良くないことのひとつです。

私は妊娠35週すぎにプライベートでものすごい高ストレスにさらされる事がらが起きてしまいました。その高ストレスが引き金で妊娠中毒症になってしまい腎機能も低下したのだと思っています。

ストレスは意識的に減らさないと減らないもんです。私は「あーなんか弱気だ。ネガティブだ。ものごとを悪く考えているぞ。」というストレスたまりサインが湧いてきたら「よっしゃ。このストレスとおさらばするために寝る!」と意識的に21時前に寝ます。これだけでだいぶ違います。

妊娠35週を過ぎてから、いい意味で「どうしようもない。」と開き直りました。人間をひとりこの世に生み出すのだから、IgA腎症の私の体になんらかの不具合が生じることは当然だろうと。「もしIgA腎症が悪化したら治療するよ。もうしょうがない。」と考えられるようになりました。こうなるまでには「私の脳みそ君よ、開き直ろう!」と、意識的な思考訓練をだいぶ繰り返しましたが。

 

出産後の私の体はものすごく早く回復しました。血圧はあっという間に100台に戻りました。たしか赤ちゃんと一緒に入院している1週間中に戻ったと思います。尿蛋白も激減しました。出産1年後には尿蛋白(-)になったのです。体重も順調に減りました。これらのスムーズな体調回復は28歳という若い年齢だったというのも大きかったとは思います。

まだIgA腎症の治療も始まっていない頃でしたから、母乳育児も出来ました。薬を飲み始めていた場合は母乳育児ができるかどうかは医師に確認が必要だと思います。

 

一人目の出産後に腎臓内科の主治医に言われたことがいくつかあります。

「2人目の出産は1年後以降。出産後1年間は体が元に戻らずに腎臓に負担がかかる。」

「妊娠出産はIgA腎症の予後に影響を及ぼす。」

「IgA腎症患者は妊娠中に妊娠中毒症になりやすく、妊娠中に妊娠中毒症になったIgA患者は高血圧を呈しやすくIgA腎症そのものが重症化しやすくなる。」

 

一人目の出産後、尿蛋白が一時的に(-)になり、大学病院腎臓内科受診が半年に1回に減ります。確か2年くらいは尿蛋白(-)だったと記憶しています。

仕事と育児をして尿蛋白(-)で自覚症状も何もなくIgA腎症ってことを全く忘れてしまうような日常を過ごせた数年間でした。

 

その4年後に2人目を妊娠出産します。32歳です。

2人目の妊娠出産はまるで景色が違っていました。

妊娠と出産のこと①

私が一人目を妊娠したのは28歳の時でした。健診で尿蛋白が見つかったのが10歳ですから、IgA腎症になってすでに18年経過しての妊娠でした。

20歳の時に1回目の腎生検をしてIgA腎症と確定診断されています。当時、大学生だった私は地元を離れていて大学病院腎臓内科に通院することは出来ません。先生からは「とりあえず地元に戻ってくるまでは通院しなくて大丈夫。体調に変化があった時と、妊娠した時は、必ず受診すること。」と言われ、2~3年大学病院腎臓内科の受診を中断することになります。妊娠は腎臓にかなりの影響を及ぼすそうで、先生から「絶対だよ!」とけっこう強く言われた記憶があります。

 

その後、地元に就職しました。IgA腎症とは思えないほど昼夜関係なくガムシャラに働きました。働いて2年目かな、会社の健診で「尿蛋白」が出て要精検になり、再び大学病院を受診しました。今冷静になって考えれば、多分、働きすぎでした。楽しかったですけど。

 

そして、妊娠しました。けっこうな激務でストレスも多い職場で、尿蛋白が出続けている状態での妊娠です。まだ若いこともあって、血圧は100台、貧血も低アルブミンもひどくなく、体調もよく、薬は何も飲んでいませんでした。

もちろん妊娠が分かり大学病院腎臓内科をすぐに受診しました。腎機能低下もあまりありませんが、妊娠時健診の時に腎臓内科も一緒に受診するようになりました。

しかし、私が選んだ産科は大学病院内の産科ではありませんでした。出産した日に美味しいフランス料理フルコースが出るし、おやつは美味しいし、部屋はきれいだし、買い物は便利だし、という評判のよい産科専門医院でした。しかも、大学病院の近くです。

フランス料理フルコースのためとは言え、大きいお腹で産科健診を受けて、次に大学病院に行って腎臓内科を受診するという流れは、なかなかハードなものでした。

 

妊娠中の尿蛋白は、(プラスマイナス)から多くても(+)で推移していました。血圧も110台です。体重は9㎏増えていました。が、35週まではすこぶる順調でした。お腹の中の赤ちゃんは、少し小さいと言われていましたが、こちらも順調でした。

35週に入り、血圧が130台に上がります。尿蛋白が(2+)に上がります。体重がさらに1㎏増えます。

36週でまた体重が1㎏増えます。

37週に尿蛋白が(4+)になり血圧が130台、また体重が1㎏増えました。

ここで、産科医院から「大学病院に行きすぐ入院するように。多分、大学病院ですぐに赤ちゃんを取り出すことになるだろう。」と言われました。産科医院から車で10分ほどの自宅に帰ることも許されませんでした。産科医院から大学病院に直行し、そのまま入院となります。入院したのは腎臓内科ではなく産科病棟です。

妊娠中毒症」でした。

すぐに家族を呼んで帝王切開での出産を検討することになったのですが・・・。先生がびっくりするほど、お腹の中の赤ちゃんが超元気だったのです。

母体が妊娠中毒症になるとお腹の中の赤ちゃんにも負担がかかるそうです。そのため早くお腹から出した方が負担が少なくてよいのですが、赤ちゃんのためにはできるだけ40週近くお腹にいてほしいというジレンマがあるそうです。

私の場合は、赤ちゃんが驚くほど元気だったので、もう少しお腹の中にいても大丈夫だからと自然分娩を待つことになりました。

緊急入院から出産まで約2週間かかっています。その入院している2週間、何か治療をしたのか、何の薬を飲んだのか記憶にありません。

食事は、もちろん腎臓病食でした。他の妊婦さんよりかなりさみしい食事でした。

点滴はしていました。点滴をしていた時の景色の記憶はあるのですが、点滴の内容はわかりません。

腎臓内科の先生がちょこちょこ産科病棟に来てくれていたのは覚えています。

産科のトイレに私の24時間蓄尿容器が置いてあったのも覚えています。蓄尿しているのは私だけではなかったはずだけど、それでもちょっと恥ずかしかった記憶があります。

入院中、お腹の中の赤ちゃんがずっと元気だったのが救いでした。

 

出産の時は、自然に訪れました。