さばみのIgA腎症との35年ノート

IgA腎症とともに生きて35年。いよいよ扁摘ステロイドパルス治療がはじまりました。

IgA腎症は経過が長いのでいろいろありますね

IgA腎症の確定診断を受けたのは20歳の頃。もう25年前のことです。

IgA腎症は難病だよと客観的に言われたのが平成27年。というより、IgA腎症が指定難病に指定されて医療費助成が受けられるようになったのが平成27年ってことです。

大学病院の受診は小学生のころからずっと続いていますが、服薬が始まったのはここ10年。ステロイド治療は8月から。

ACE阻害薬コバシルの服薬がはじまった時に、いつもの友人といつものように飲み会をする時に「コバシルを飲んでお酒を飲むのはやめた方がいいのではないか。」と話をして、お酒ではなくコバシルを飲まずに飲み会に参戦した思い出があります。

 

小学生のころから健診で尿蛋白が出ていました。

そのころから、けっこうな運動量の運動部に所属していました。小学4年生の時に小学6年生に負けて泣いていました。

中学校に行ってももちろん尿蛋白は検出されています。

(学校健診で発見されるパターン多いんです。IgA腎症。)

中学校でも続けた運動部の練習量は格段に増えます。休みは、1月1日のみ。21時までの練習が週に4日。土日はほぼ1日練習。

お陰で、小学4年生の時に負けた6年生が中学3年生、私が中学1年生になり、再対決した時にめでたく勝つことが出来たのです。

中学3年生の時、ある高校からスポーツ特待入学の話がきたのです。私は入る気ゼロでしたし親も反対でした。お断りするときに、親が「確定診断はされていないけど腎臓病だろうと言われている。」と伝えたのですが、その高校の関係者の方から「よくある話。たいしたことはない。」と言われたそうです。

その頃は、IgA腎症は予後の良い病気だと認識されていました。だから、そんなに治療とか生活とか何も言われなかったのです。

だけど、今となれば。予後が良くはないと分かった今となれば。

中学生時代のような激しい運動は止められていただろうなと思います。休みなしですからね。体も心も酷使でしたからね。スポーツ特待の話なんてのもなかったでしょう。

 

大学と実業団で運動を続けた中学時代の友人がいます。「大学・実業団は中学高校時代の練習と全く別物。同じレベルで語ることが出来ないくらい厳しい世界。中学時代は天国のようだった。」と言ってました。大学とか実業団の練習ってどんなものなんでしょうか。怖いです・・。

ま、今となれば昔の話です。

 

ステロイド治療が始まり不自由が多少出てきて年をとったことも実感して。

体も心も酷使しすぎずいい塩梅にいることにちょっと後ろめたさを感じたりすることもあったのですが、仲間と今の仕事をするようになっていい意味で「ま、いいかなっ」って安心できるようになりました。

そう。自分の中に不安があると「私、IgA腎症を言い訳にしてる。」とか「病気なのに。」とか「病気だから。」みたいな思考が巣食います。これは、けっこうつらい思考回路です。

今は「IgA腎症かぁ。ま、いいか。」的な穏やかな思考とゆるい生活を満喫できています。感謝です。

 

ひとつだけ、終わりにしようと思っていることがあります。

今の仕事をしっかり続けるために、もうひとつ続けてきたことを終わりにしようと考えています。

これはIgA腎症だからです。もう45歳。体に無理させられない。

だからやめようと思っています。

でも、それを言えない。古いつきあいの友人たちがたくさんいます。

先ほども電話で話をしてたのですが、「私、やめるね。」と言えなかった。

言わなくてもいいんですけど・・・。でも、ケジメとして言いたいなって。

 

今、45歳だから。

平均寿命を考えると、残りの人生あと40年弱かな。

けっこうあるけど、でも、透析しない時間はもう少し残り少ないだろうから。

自分のために過ごしましょう。

 

IgA腎症になったことで、いろいろな方向から考えることができて、ありがたいです。