さばみのIgA腎症との35年ノート

IgA腎症とともに生きて35年。いよいよ扁摘ステロイドパルス治療がはじまりました。

妊娠と出産のこと③

2人目の妊娠は、「重いか軽いかは分からないが、ほぼ妊娠中毒症になると思う。」と腎臓内科の先生に言われての出発でした。「今回出産する産科は腎臓内科と同じ大学病院にすること」というのも決められてしまいました。(1人目の出産時と違い、周産期医療センターが新しくなったので産科病棟もきれいになったことと、大学病院全体で入院時の食事に力を入れるようになったので食事が格段においしくなったことが幸いでした。)

1人目の出産から4年がたち尿蛋白も常に(+)以上になっていましたし、年齢を重ね、以前より疲労感を感じるようにもなっていました。が、血圧がそれほど高くはなかったので薬での治療はまだ始まっていませんでした。

腎臓内科の先生には「2人目の出産をすると腎機能は低下するし治療速度は早くなるよ。ま、産まなくても低下するから、結局同じだけどね。」と言われました。この時の診察室で先生と私で半笑いしているけどピリッとしたグレーじみた空気感、まるで昨日のように色鮮やかに思い出します。

産まない選択肢は全くなかったのですが、「腎機能低下は免れないのね。しようがないわね。」という覚悟は1人目よりずっと重かったのです。

妊娠中は1人目同様ずっと働いていました。しかも妊娠出産時期が職場の大変革期と重なってしまったので、それはそれは勤務時間も長く大変革に伴う業務量の増大も著しいものでした。

それでも仕事をしながら、妊娠中毒症になると腎機能がさらに低下するので、とにかく、体重が増えないように、血圧が上がらないように、塩分制限と運動を心がけていました。昼食は塩分制限弁当を職場に宅配してもらっていました。おやつも食べないようにしていました。昼休みは食後歩いて運動していました。

産科健診・腎臓内科健診ともに母体はだいたい順調でした。途中30週手前くらいに少し糖が出たことはありましたが、尿蛋白は(プラスマイナス)、血圧も120ちょいくらいで推移していました。

ただ、お腹の中の赤ちゃんは「けっこう小さい」。

ある日の朝、出勤しようと朝起きた瞬間、ふらつき座り込んでしまいフラフラで立ち続けられないことがありました。原因は栄養不足でした。妊娠中毒症を心配するあまり妊婦として必要な栄養までカットしてしまったようでした。ここから、もう少し食べるように、味薄はそのままですが食べる量全体を増やしました。

お腹の赤ちゃんが小さかったのも栄養不足も一因だったんだろうと思います。が、一人目が小さくてもとても元気だったので、当時は、お腹の赤ちゃんが小さいことはほとんど気にしていませんでした。

 

気を付けてきました。妊娠中毒症になりたくなくて、ずっと気を付けてきました。

でも、37週で尿蛋白(2+)血圧130を超え、38週で(3+)血圧140。妊娠中毒症になってしまいました。この時の無力感というか悲壮感というか、今まで自分が頑張って努力してきたことが全否定されたように本当につらかった。この時は、IgA腎症を呪いたくなる気分でした。いつも産科に行ってから腎臓内科に行っていたのですが、腎臓内科の待合イスで涙が止まらなくて、泣き顔で診察室に入ったのを覚えています。