さばみのIgA腎症との35年ノート

IgA腎症とともに生きて35年。いよいよ扁摘ステロイドパルス治療がはじまりました。

「死」は「片付け」なり

IgA腎症だからということではないと思います。仕事柄、死が身近にあるからかもしれません。割と「死」を考えています。この「死」は自分の死亡のみです。

私は死を考える時、必ず「身の回りの物を片づける」という行為に帰着します。先日、ゴミ袋5袋分の衣類を捨てました。その前には本を売って4万円になりました。そんな類の行為をするときは「死ぬときにできる限り私所有の物がないように。」と唱えています。

現実的には、私が死亡した後、子どもたちが私の所有物を処分をする際にかなりのお金をかけることになってしまうことを避けたい!という気持ちがあります。だから、とにかく、今から処分できるものは処分しておきたいのです。

ものを片付けたり処分したりする先には死があるのです。

という話を友人にしたら「早すぎる!考えすぎ!」と思いきりダメ出しされました。

 

私の周り360度を見回すと、ものに囲まれています。意識的に片づけて処分していかないと増える一方です。ものは、所有者が死んだ途端に負の存在になりますからね。

1日1時間だけでいい。少しずつ少しずつ不要物をゴミ袋に入れる。そして、処分する。このサイクルを毎日続けられれば、物がだいぶ減るはずです。

という話を友人にしたら「普通に断捨離じゃん。」と呆れられました。

 

そうなんですね。多分、普通に大掃除とか断捨離とか呼ばれるだけの行為だと思います。

でもなぜか、私は、片付けやものの処分に未来の死をイメージしちゃうんです。

潜在的に、IgA腎症でリスク高な心疾患での突然死を避けたいという意識があるのかもしれません。